John Pawson × Deyan Sudjic in LONDON

Column Vol.1 - 10/1/2015

This interview took place at the site of the new Design Museum in London, set to open in November 2016. This interview has long been a dream of Takeshi Nakasa. His long-time friend: John Pawson, his most favorite architectural critic: Deyan Sudjic. Finally it has come true. (October 2015)

Text : Megumi Yamashita (Freelance Editor)
Photo : Koji Fujii (Nacása & Partners Inc.)
Edit : Nobuko Ohara (Nacása & Partners Inc.)

  1. First meeting in 1980s

  2. High-tech and Minimal

  3. New Design Museum

  4. Design Competition

  5. The first public building


1. First meeting in 1980s

- Despite not being able to attend, Mr Nakasa was pleased to organize this dialogue between Deyan and John at the construction site of the new Design Museum in London.

John Pawson(J): I met Nakasa-san for the first time in the 90s, when I gave a lecture in Tokyo. He kindly threw a party for me. I had actually known him long before that, through his photographs. When I was in Japan at the end of 1970s, his name came up a lot. Nakasa-san has documented Japanese architecture and beyond.

Deyan Sudjic(D): When we first published Japanese architecture and design in Blueprint in the 80s, I remember we used his photographs of the projects by Fuji Takayama’s Plastic Studio & Associates.

- How did you first meet each other?

D : John had just finished the gallery in Cork Street for Leslie Waddington. I was publishing Blueprint and he sent a letter with photographs to me, so we decided to meet in the gallery. It was 1984.

J : Deyan wasn’t sure if the gallery was publishable as architecture, because there was nothing in it. It was just an empty box. 。

D : So I made an article about the door handle.

J: Yes, the door handle designed by Shiro Kuramata.

J: John’s work had been shown in the World of Interiors - the apartment with the famous pink cornices. All London was talking about how John painted them pink.


2. ハイテクとミニマル

そのころ、デヤンさんはフューチャーシステムズのヤン・カプリッキーが内装を手がけたハイテクスタイルのフラットに住んでいたのでは?

D:まもなくそのフラットに引っ越すところでした。会ってすぐに意気投合したジョンにも見に来てもらったところ、「好みではないが、非常によくできてる」って(笑)。

J:その後、デヤンの留守中に妻としばらく滞在させてもらったのですが、なかなかすばらしいフラットでした。とても居心地がよかった。

D:それでフラットに戻ったら、冷蔵庫にいっぱいキリンビールが入ってた!

J:日本のビールが好きなもので。当時はなかなか買えなくて、 まとめて卸し買いするしかなかったんです。

D:ビール缶のデザインも美しかった。

後のヤンの作品を考えると、かなりミニマルなデザインと言えます。

J:確かに。ミニマリストの私ですが、スタイルに関わらず、よく作られたものは好きです。

D:当時、最もショッキングだったインテリアがピンクのコーニスと、ヤンのハイテクだったのでは。スペースシップの住み心地はどう?と盛んに聞かれることにうんざりしていましたが、ジョンはそうは言わなかった。

J:そんな風には見なかったからね。

D:実はジョンの作品は既にワールド・オブ・インテリア誌で記事になっていて、なにかと話題になっていました。天井と壁の間のコーニスの部分がピンクで塗られたアパートメントです。いったいなぜジョンはあそこをピンクに塗ったのかって、ロンドン中が騒いでいた。


3. デザインミュージアムの移転

出会った当初から馬があった、ということのようですね。初めて二人で仕事をしたのは、いつですか?

旧デザインミュージアム

D:1999年にグラスゴーの建築祭でインスタレーションを頼んだのが初めだったはず。そのあと、私がディレクターを務めたヴェネチア・建築ビエンナーレでの展示デザインをお願いしました。

ー テムズ川のほとりから高級住宅地区のケンジントン・ハイストリートへ。なぜデザインミュージアムは移転になるのですか?

D:1989年にオープンした現ミュージアムが手狭になったからです。私がディレクターになったのは2007年ですが、当時、テートモダンに隣接する土地を買って、タービンホールの後ろに新築する案が持ち上がっていました。1年ほど検討したのちに別の場所を探し始めたのですが、そこへコモンウェルス・インスティチュートを購入したディベロッパーから話が来たんです。

コモンウェルス・インスティチュートとは?

J:コモンウェルスに属する52の国がそれぞれ展示などするところです。(コモンウェルス=イギリス連邦。大英帝国下の旧植民地)1960年から62年の間にRMJMの設計で建てられ、2002年から閉鎖になっていましたが、グレード2*の歴史的建造物に指定されています。

D:この建物と周辺の土地を購入した不動産業者は、再開発を目指してOMAにマスタープランを依頼しました。それで中高層の集合住宅棟を建てる許可を得るには、このアイコン的建物を修復し、文化施設として活用する必要があったのです。それでデザインミュージアムに175年間家賃なし、プラス修復費として1000万ポンド(20億円弱)を寄付すると言ってきた。そこで話に乗ったわけです。ミュージアムの周りに集合住宅が建設中なのはそのためで、OMAがデザインを手がけています。


04. コンペへの挑戦

ジョンポーソンオフィス

ー 2009年に新館改築案を公募したとき、スジックさんはポーソンさんにコンペに出るように勧めましたか?

J:非常に小さな声ながら、「コンペに出してみてはどうか」と何度か言われたので、 察しはつきました。私は通常コンペには参加しないのですが、一旦出すと決めたら、とことんやりたい。 それにオフィスの所員がついてきてくれました。みんながコンペのために夜遅くまで力を注ぎ、オフィスにはこれまでないエキサイティングな雰囲気が充満してね。勝ち目は薄いと思っていたので、勝つためには相当の労力を注がねばなりませんから。コンペ主催者は「模型などはなくてもいいから、アイディアを提出するように」と言いますが、アイディアはすべての工程の結果。10人の審査員にそのアイディアを伝えることは容易ではありません。

D:どのコンペも現実的なものとして考える必要があります。必ず勝てると信じて挑まないと、むずかしい。

J:一番苦しかったのが、最終候補にデイビッド・チッパフィールドと残った時。最終のプレゼンテーションのため、模型を乗せたクルマで待機していたら、隣にライトバンが停まり、中から私の4-5倍はありそうな大きな模型とデイビッドが現れたんです。もうこれまでだ、負けた、と思いましたね。デイビッドの案はとてもよかったですし。

D:建築家たちがこうしたコンペのプロセスに挑むことには、毎度頭が下がります。かなりの確率で「負ける」という痛手を受けるわけなので。

J:どんなに冷静な人であっても、案を拒絶されるのは本当に辛いですよ。感傷的になり、傷つくもの。謙虚であるために、負けることも悪くないかもしれませんが。幸い、今回はそんな痛みを受けずに済みました。 今回、コンペの最中、デヤンはいつもにも増して寡黙でしたね。コンペのことは一切しゃべらなかった。

D:私はジョンならいい仕事をすると知っていたということです。そしてその通りになりました。

J:デヤンは建築士でもあるので設計図が読める、そして頭の回転が早くて賢いので、とても助かっています。万事がスムーズに進みますから。デヤンも、私のオフィスのすべてに自由にアクセスできるので、仕事がし易いのでは?ただ、友人ということで、公私混同しないようには気をつけています。


05. 待望のポーソン初公共建築

ー 新しいデザインミュージアムはポーソンさんにとって、これまでで一番大きいプロジェクトですか?

J:予算的には最大ではないですが、私にとって初めての公共建築になります。これまでは私邸が多かったので、これでようやく一般の人に私の作品を見てもらうことができます。それにロンドンなので訪問しやすいかと。

D:実は私はこのあたりで育ったんです。子供のころからこの建物が好きで、よく遊びに来たものです。 戦後、建設資材の規制が解除になってすぐ建てられたもので、当時流行だったハイパボリック・パラボロイド・シェル構造の屋根が特徴です。サーリネンのJFK空港TWAターミナル、丹下の代々木体育館には及びませんが、同様の建築ですね。ビートルではなくモンキーズ、といったところでしょうか。

J:屋根はハンカチーフを広げて真ん中をつまんだような形です。建物の公園側の2面は透明なガラス張りに、あとの2面は集合住宅に面しているので、磨りガラス張りになります。内部の中央は屋根まで吹き抜けになり、どこを歩いていても、次に行く所が見えるデザインになっています。

D:保存指定はある建物をいじり過ぎだ、という人もいますが、ミュージアムにするのに、この改築は不可欠でした。ジョンのデザインによって、スペースがずっと使いやすくなります。特別展用のギャラリーが2つ、常設スペース、図書室、教育室、スタジオ、レストラン&バー、メンバーズルーム、シアターなどがあります。

J:元の建物を設計したロジャー・カンリフをオフィスに招いて、彼の意見もデザインに反映させました。

D:ロジャーは興味深い人物でしてね。このコモンウェルスが建って間もなく、建築をやめて田舎の農場に隠居しています。彼は男爵の称号を持つ貴族なんですが。

ー このプロジェクトが終わったら、農場に隠居してみたいなんて思いますか?

J:実際、田舎にファームハウスを買って、改装中なんですが…。

D:ミュージアムは2016年の11月にオープン予定です。そのときは、仲佐さんもぜひ撮影に来てください。


― 仲佐猛より二人へメッセージ ― 

デアンがドムスの編集長だった時に、伊東豊雄さんが設計された仙台メディアテークの写真を掲載してもらい、美しいレイアウトに感激したことを思い出しました。デアンの著書『巨大建築という欲望』の辛口批評の中で、ジョンについてはいささか甘口?なのではと感じていましたが、何年にもわたる信頼関係があったことに、この対談を通して納得しました。お二人がますます元気で活躍されることを期待しています。

 

ジョン・ポーソン
John Pawson

1949年生まれ。イートン校を卒業後、禅への憧憬から日本へ。倉俣史郎との出会いから建築を目指す。ロンドンのAAスクールに在籍後 、私邸やギャラリーのデザインで、独自のミニマリズムを打ち出す。チェコのシトー派修道院、キューガーデンズ内の橋などで注目を集める。建築のほか、ヨットの内装、家具やキッチングッズまで、トータルで独自の世界観を表現している。

http://www.johnpawson.com

デヤン・スジック
Deyan Sudjic

1952年生まれ。1982年、イギリスの建築&デザイン月刊誌「ブループリント」の創刊に参加し、編集長を勤める。2000-04年、イタリア月刊誌の「ドムス」の編集長。その間、2002年のヴェエチア建築ビエンナーレのディレレクターも勤める。2007年よりロンドンのデザインミュージム館長に。倉俣史郎、ジョン・ポーソン、エットレ・ソットサスの作品集など著書多数。


http://designmuseum.org

文:山下めぐみ(フリーエディター)
写真:藤井浩司(株式会社ナカサアンドパートナーズ)
編集:大原信子(株式会社ナカサアンドパートナーズ)

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